オリジナルソング この感謝を その4

3月24日 「妻の体調が悪い。むかむかするらしい。」お昼になにか悪いものをたべたのだろうか?とも思った。日記には「全体的に感謝の日々である。今は経済的には何の心配もない。タイでの生活が赤字続きだったのが、うそみたいである」とも書いてあった。

家を売りに出してタイにいったのだが、タイに滞在中には売れなかった。

タイでは、自転車で奉仕をしようと思っていたが、それは1か月しかもたなかった。

最初、自転車の後部座席に妻をのせて集会に行ったのであるが、犬が追いかけてきて(バイクには勝てないと知っているらしく、自転車をおそってくる)危うくかまれるところだった。

資金はないが、自動車を買うことにした。トヨタに勤務されているタイ人の兄弟に適当な車をチョイスしてもらった。36万キロ乗った車が40万円だったが。「性能がよい」とのこと。その言葉通り、46万キロまで乗って、最後は16万円で引き取ってくれる兄弟がいた。

(おそらくエンジンは買ったときに乗せ換えていたと思われる。)私がいつも頼んでいた

チェンマイの修理工場は、腕が良く、また安くしてくださった。感謝である。

鹿児島の家は、タイから戻って1年後に安かったが売却できた。

この家も以前書いたが、エホバ神からいただいたものだった。

私は1988年に必要な奈良の会衆に移転したのだが、借りる家の方に、念のためと思って、

家で週に1回集会(当時は書籍研究は家でおこなっていた。)を開きますがいいですか?と言ったところ、「だめです。」それで、急遽家探しに、もう一人の兄弟と行った。

どんなに探しても、貸家はみつからなかった。移転の日付は決まっていた。そんな時、

兄弟が、「売り家があります。1150万ですよ。」見ると、線路際で2階建ての3DKの狭い家だった。長期ローンは嫌だったので、7年の短期で月々13万円ほどのローンだった。当時の家賃が駐車場込みで11万円だったので、その家に住むことにした。

しかし、1年半もしないうちに私の体調がおかしくなった。便に血が混じるようになったいた。ものみの塔の司会をしている最中に気分が悪くなった、1回目はトイレに行き座っていたら回復したが、2回目は5分間意識不明だったらしい。

私は東洋医学に興味があったので、その際も湯治に関心があり、当時九州大学医学部には、温泉研究所があった。その中に、胃潰瘍に効く温泉が紹介してあったので、そこに湯治に行った。そこの温泉水(地下1000メートルからの鉱泉)を飲んだ瞬間、効くと思った。

しかし、祭られていたので、宅配ができると聞いて、1日で別の大分の温泉に1泊し、そのまま、鹿児島の実家に顔をだした。そのころ実家は父と母の二人暮らしだった。「親孝行の真似事でもできればよいのだが」と思って、鹿児島に帰って療養しようと思った。奈良の会衆にも、立派な兄弟たちが入ることになり安心した。

移転に際して、家を売りに出したが、すぐに売れた、なんと500万円ほど買った時より高く売れた。(バブル全盛期)そのお金で住宅金融公庫から借り入れし鹿児島の温泉付きの中古の家を購入した。家賃を払う感覚だったので、エホバ神が家をプレゼントしてくれたと思っているのである。築12年くらいの中古だったので、「屋根や外壁の修理をしませんか?」と塗装業者が言ってくるのが、しばしばだったが、ちょうどいい具合に台風が来て、保険で屋根の吹き替えなどしてくれて、お金をかけることもなかった。合計何百万円保険金がでたのかは計算していない。

タイから帰国しても、家は売れなかったが、急に鹿児島の不動産屋の兄弟から売れそうですと連絡が入った。そして、ある学校の先生が購入してくださることになった。

築40年以上経っていたので、壊すお金(200万円くらい)を心配していたので、そのプラスマイナスはとても大きかった。また売れてなければ、府営住宅に入居もできなかったので、エホバ神のスケジュールに感謝である。

3月29日(火)に引っ越しが決まった。兄弟の引っ越し屋さんが、なんと格安で引き受けてくださった。家具があまりないとはいえ安価だった。皆さんの親切に感謝である。電気、ガス、水道やインターネットの開通などやるべきことがたくさんあった。

3月24日(木)新居のカーテンを買うために息子夫婦とニトリに行った。その時、妻が「ちょっと座らせて!」急に動けなくなった。車まで、抱えながら行った。

3月26日(土)私が新居のインターネットの開通に立ち会っていた時、息子から「お母さんがトイレで倒れた!」と電話があった。

救急車を呼ぼうか?などいろいろ意見があったが、私は土曜でも診療をしている病院はないか調べていた。何とか探し当てた。30分くらいかかる個人病院だった。