タイから帰国して、2年間近く民間アパートに住んでいた。家賃が駐車場を含めて
76000円と高かったので、府営住宅に申し込んだ。何と新築の住宅に5.5倍の低き倍率で当選した。区域外だったので、一度は断念しようとも思った。しかし、ある事情で、引っ越しが神の意志であることがわかった。
そのころ、妻の調子が悪くなった。
2022年2月23日の日記には「妻の体調が悪いので…病院に連れていく」と書いてあった。
コロナ禍で駐車場でPCR検査をされた。どの位待ったあろうか。
のどのCTと、血液検査をされた。甲状腺の疑いがあるとも言われた。
3月12日の日記には、「今日はエコーの検査に行った。検査結果は、異常なし。
とても安心した。」と書いてある。
しかし、3月15日には「体重が減ってきている。」「日々の記録をつけたらいいね。」
3月22日の日記には。「妻の体調が悪いので、二人で小食玄米菜食に徹底する。」
と書いてあった。
私と玄米菜食との出会いは次のとおりである。
私は、中学時代は行内マラソンでは上位の方で、中学では卓球をやりすぎて心臓肥大となり、高校では行内マラソンではビリだった。体が疲れやすく、学校から帰ったら30分もしないうちに、寝てしまうという有様だった。受検勉強はできなかった。一夜漬けで何とか進級
することができた。大学に入って「どこか悪いと思いますので、調べてください。」
すると、即入院だった。「亜急性腎炎です。急性が慢性に移行しています。」
「治りますか?」「治りません」それで本屋に行って治る方法はないか、本を見つけに鹿児島の一番大きな本屋へ行った。
「健康への道」(二木謙三:東京大学医学博士)を見つけた。
「難病は玄米菜食で治る」と書いてあった。すぐ退院し、玄米を炊こうと思ったが。当時は圧力釜は鹿児島で一番大きな百貨店にも置いてなかったので、注文して取り寄せた。
当時、父は種子島の教育事務所長に赴任中で、私は鹿児島の自宅で弟と二人暮らしだった。毎日野菜と豆腐それに、薄味の味噌汁で、弟は「肉が食べたい」などと、やや不満の
ようであった。種子島の先生からも、腎臓にはクコが良いと薬草のクコを送ってくださった。そのような食生活をしているうちに、大学が休暇中で種子島の家に行ったとき、保健所で診察してもらったところ、2プラスだったタンパクも消え、糸球体の病変も収まっていた。からだの疲れやすさも改善されていた。ただ、おそらく腎臓の病変で血管が損傷され、
一部の血管が細くなったのであろう、腎性高血圧は治らなかった。大学卒業後の入社試験のとき、東京まで、プロペラ機で行ったが、風邪も引いたせいか、その会社の診療所で血圧は
190近かったので、(当時いつも160位だった)人事の部長は「夏休みの間、安静にして、
血圧が低くなったら、それを提出してください。」と言われて、結果勤務先は診療所のない大阪に赴任することになり、そこで妻との出会いがあったということであるから不思議である。
それからずっと玄米食を続けて来たわけではないが、体の調子が悪くなると玄米菜食に
戻してきた。今回も妻の体調がすぐれないので、またその食事に戻そうというものだった。