私たち夫婦は、2012年私が62歳、妻が67歳でタイに移り住んだ。1回目の無輸血手術が1997年の時だったので、手術後15年後のことだった。タイ語と格闘する日々だったが、
周りの良き友人たちのおかげで、楽しく充実した奉仕を楽しむことができた。最初は東北に位置するコラート(正式にはナコンラチャシーマ)で、約1年、その後チェンマイで6年7か月、合計7年7か月滞在したことになる。最初の3か月で、タイ語を書くことを覚え、1年で
1000語覚えることを目標にした。それは、語呂合わせで覚えるようにして達成でき、最後は
タイ語での開拓奉仕学校にも参加することができ、タイ人の兄弟姉妹とも親しくなれた。
私たちは、体が頑健ということもなく、タイ料理はおいしいが、おなかを下すことが多く、私には合わなかった。ある時、私の体重は44キロまで落ちた。でも奉仕の楽しさ、充実さはタイでの奉仕の私たちの期待を裏切らなかった。7年7か月の間、病院に行ったのは、私が1回だけだった。奉仕中に犬にかまれて、狂犬病の注射を5度受けにいったときだった。あとは妻が歯の治療に行ったぐらいであった。ああそうそう、コラートでデング熱にもかかり、高熱が8日ほど続いた。お隣の会衆に日本人の姉妹がおられ、同じ症状(目の奥が痛く、高熱)で病院に行き、デング熱と診断された。
私は、ネットでデング熱を調べたが、「特効薬はない。水分を多く取ることと安静」と書いてあったので、ひたすらポカリスエットを飲み、病院にはかからなかった。(クレジットカードの保証で、高級な病院に入院しても無料だったのだが。)結局姉妹よりも、私の方が
早く回復した。ただ、当時プーケットにおられた姉妹によると、デング熱で入院され、もう退院していいですよと医師から言われたが、完全に回復していない時に、活動を再開すると
今度はデング出血熱で命を落とすことがあるので、回復したと思っても、あと1週間くらいは、ゆっくり過ごした方がよいとのこと。姉妹は危なかったようであった。(格言22:3)
このデング熱も約4種類あるそうで、1度かかったら、あとは大丈夫とならないので厄介である。
楽しいタイでの奉仕であったが、チェンマイの大気汚染が私たちの生活に影響を及ぼし始めてきた。私たちが、チェンマイに移り住んだ時も、3,4月は空にスモッグがかかる日が多かった。土地の人たちは、「山焼きが原因で昔からある」と気にしている様子はなかった。
しかし、年々、大気汚染はひどくなる一方で、2018年頃には、2月末頃から5月の初めころまで、PM2.5の数値が400を超える日も少なくなかった。
そのころには、タイ人もことの深刻さを理解してきたようで、マスクをするようになっていた。毎年、記念式のキャンペーンのころは、家の方と会話は難しかった。ひたすら
パンフレットを渡す奉仕だった。
私は体の訓練(テモテ第一4:8)に週に一度は、テニスで汗を流していたが、テニスコートが使えないくらい、すすが落ちてくることも珍しくなっかった。原因はチェンマイでの自動車の増加が原因していると思った。日本と違い、タイでは乾期(10月~4月)には、雨がほとんど降らない、雨が大気中の汚染を流してくれるのだが、チェンマイはそうはいかない。排気ガスがとどまり続けるのである。
妻は大手術を乗り越えたものの、100パーセントの酸素の影響で肺が普通の人より弱い(本人の感覚)ので、タイの別の地へ移転しようか?日本に帰国しようか?と考え始めていた。
そんな折、スカイプで研究していた日本のご主人さん(姉妹のご主人)から、研究が終わってから突然に、「うちの会社を手伝っていただけませんか?今度、働き方改革がスタートし、残業など勤怠管理をしっかりしないと、経営者が罪にとわれることになるのです。
週に2日でよいので」と言われた。もう私も年齢が70になろうとしていた。日本に帰国しても、仕事をしながら開拓奉仕を続けたいと思っていたので、これは、神の意思かもしれないと思い、妻に相談した。妻はタイでの奉仕をまだ続けたいとも思っているようだったが、私の意思を尊重し、帰国することにした。日本人の友人たちも、高齢の私たちへのエホバ神の
支え方を垣間見たようで、励まされているようだった。(詩編37:25)
2020年1月末に帰国した。1か月後にコロナが流行し始めた。