ローマ11:33「ああ、神の祝福は何と豊かで、神の知恵と知識は何と深いのでしょう。
神の裁きを知り抜くことも、神の道を知り尽くすことも決してできません。」
この聖句は大好きな聖句だが、頭の中のイメージは、創造物の素晴らしさや、自分や他の人のクリスチャン人生の豊かさに感動するというのが、主だったが、次の記事を読んで考えが変わった。この記事は10年以上前に読んで感動したので、友人に話していたのであるが、
どの記事かを書き留めていなかったので、つい最近まで残念な思いをしていた。
「接ぎ木」で検索しても出てこない。それで「接ぎ木 アクラ」と、検索したら出てきた。
*** 塔84 9/1 10–11ページ 10–12節 『だれがエホバの思いを知るようになったであろうか』 ***
イエスの時代の生来のユダヤ人は,イエスの生来の兄弟たちであったため,また族長アブラハムの生来の子孫であったため,その霊的なオリーブの木の最初の「枝」になる見込みがありました。彼らは,モーセを仲介者とする大いなるアブラハムとの律法契約に入っていました。イエス・キリストは,「イスラエルの家の失われた羊」以外の地上のだれの所にも直接には行かれませんでした。(マタイ 10:6)したがって,エホバ神を根とするその霊的なオリーブの木の「枝」となる最初の人々は,生来のユダヤ人であり,イエス・キリストの忠実な12人の使徒たちと他の幾千人もの生来のユダヤ人でした。しかし,正にイザヤ 10章22節に予告されていたとおり,「救われ」て大いなるアブラハムの胤となり,その「約束」の相続者となるのは,少数の「残りの者」だけでした。パウロはこの預言をローマ 9章27節で引用しています。
11 「アブラハムの胤」の「枝」となる見込みのあった人々を折り取ることは,割礼を受けたサマリア人の改宗をもって始まり,大いなるイサクであるイエス・キリストの死と復活の3年半後に本格的に行なわれるようになりました。その時点で,非ユダヤ人で割礼を受けていない信者,つまりローマ人の百人隊長のコルネリオとその家族および信仰を持った友人たちが使徒ペテロにより改宗し,エホバの霊により生み出され,油そそがれた後にバプテスマを受けました。(使徒 10章)このようにして,野生のオリーブの木の「枝」が,エホバ神を命を与える「根」とする霊的なオリーブの木に接ぎ木されました。
12 しかし,だれであれ折り取られた生来のユダヤ人が,アクラとプリスキラのように問題を再び考慮し,悔い改めるなら,それらの人々は,大いなるイサクであるイエス・キリストに対する不信仰ゆえにユダヤ国民が失ってしまった霊的な特権に再び接ぎ木されたことでしょう。(使徒 18:1-4,26。ローマ 16:3。コリント第一 16:19)このことは,大いなるアブラハムであるエホバ神の愛ある親切を例証しました。自らの父祖たちのゆえに神からなお愛されていた生来のユダヤ人に対するエホバ神の側のこれほどまでの称賛すべき寛大さこそ,使徒パウロをして,「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は何とたどりがたいものなのでしょう」と叫ばせたものなのです。エホバの「思い」のこのような啓示は,わたしたちの心からの感謝の念をも呼び覚ますでしょうか。